信仰 religious faith 2004 1 23
仏陀やイエスキリストを、
神格化し、無謬(むびゅう)と信じることは、正しい。
これは、「正しい信仰」と言える。
しかしながら、世の中には、「誤った信仰」が流行している。
学者たちは、無神論者が多いと聞くが、
しかし、彼らは、信仰の世界に生きている。
彼らは、現代に甦った「神学者」である。
たとえ、学者の間では、巨人と称される高名な学者でも、
一介の人間に過ぎない。
その「一介の人間」を、神格化し、無謬と信じて、
信仰しているに過ぎない。
現代において、愚かな者とは、学者である。
今日の「日経ビジネスEXPRESS」の電子メールには、
このようなことが、記事としてありました。
「神格化され、無謬と信じ込まれた、
マルクスやレーニンの偶像が、地に堕ちて久しい中、
ウェーバーだけは、尊敬に値する、しなければならない、
残存する唯一の対象である。
そう思って一生を費やした学者は、日本に、そして世界中に何百何千といる。」
こういう学者は、「知性の奴隷」になっているに過ぎない。
そもそも、科学とは、「常識を疑うこと」から始まったのではないか。
にもかかわらず、
「一介の人間」に過ぎない高名な学者を、
神格化し、無謬と信じてきた。
少なくとも、こういう学者は、科学者とは言えない。
「中世の神学者」に近いのです。
ウェーバーだけではない。
ほかにも、過去に、世界的に高名な学者は、たくさんいた。
彼らは、正しいのか。無謬と言えるのか。
科学とは、「常識を疑うこと」から始まる。